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ごはんを食べよう国民運動推進協議会主催

「早寝、早起き、朝ごはん運動に向けて」

とき 平成19年6月19日
ところ 虎ノ門パストラルホテル(東京都港区)

川勝 平太(静岡文化芸術大学 学長)

川勝 平太
(静岡文化芸術大学 学長)

文化力について

 静岡文化芸術大学、たまたま先ほど申しましたごとく、木村尚三郎先生が初代学長を務められたところなので、少しそのことからお話をさせていただきたいと存じますけれども、この大学は2000年に開学したのですけれども、もともとは、高坂正堯先生が、つくられた大学です。

 高坂先生と言いますと、日曜日にサンデープロジェクトというのがありますが、そこで、島田紳助さん、吉本の島田さんを相手に、何と言いますか、非常に難しい政治家や学者のお話を、紳助君が茶化しますと。それをやわらこうに「それは違うのや、こういうことや。」と言うことで、京都弁でやわらかく、しかし、的確にコメントをされまして、そうこうしているうちに、もう回を追うごとに島田紳助さんが実力をつけていくというか、いわば、あれは公開セミナーを視聴者の前でなさっておられて、まあいわば、島田紳助さんとご一緒に、国民が、国際政治あるいは日本の政治について、見識を高めていくという、これは実は、高坂さんご自身が企画されたということでございました。

 この高坂先生、まだ20代のころに、「現実主義者の平和論」とかという論文を中央公論に出されまして、そして、日本は軽武装でよろしいという吉田路線を、明確に正当化して、そして、その後の日本の歩みを決めるような論文を若くして出されたわけであります。

 この方、30代になられまして、「国際政治」という本をお書きになりました。今、中公新書に入っていますけど。これ、まだ読み継がれています。1960年代に出されていますから、もう40年以上も前ですけれども、何十版という版を重ねているんですが、そこに国の形というのは、3つのものがいると。これは、力の体系、それから利益の体系、それから価値の体系と、この3つの体系がいるんだと言う。それで、いわゆる理想論とか、イデオロギー的なものは一切排して、この3つの体系を整えなければ、国としては体裁が整わないということを、その著書で言われているわけですが、力の体系というのは、国民の安全、生命と。これを守らないようではだめだと。

 北朝鮮では、300万という人が餓死したというようなことが報じられていますけれども、それでは国の体をなしていないと。北朝鮮から、仮にテポドンでも飛んできたりしたときに、それを守らなければ、国民の生命、安全が保障できないわけですね。あるいは、300万という人が死んだと、中国では毛沢東の時代に3,000万の人が餓死したと言われていますけれども、そういうような国ではだめであります。したがって、その利益の体系と力の体系、利益、すなわち、そのぴちっとした経済力を持っていないといけないと。

 それから、もう1つ価値の体系というのがいると。価値の体系っていうのは、例えば、近代国家であるイギリスは、北アイルランドで、もともとアイリッシュの方はカスリック、イギリスはヘンリー8世以来、いわゆるアフリカン、ヘンリー8世ご自身が法王の立場に立たれまして、いわゆるイギリス国教会というのができたんで、宗派違うわけですね。それ以外に、いろんなプロテスタントだとか、スコティッシュの人たちは長老派と言われるプロスビティアンという、そういう人たちが入り乱れて、流血のことがずっと続いておりますが、そういう国民の文化的共通性がないと、やっぱり国としての体裁が立たないんだということで、価値の体系というのがいるということを言われたわけです。

 そして、この高坂さん、そういうことを言われていながら、一方でですね、それ3つとも必要なわけですね、3つとも色あせにできないんですけれども、しかし、いわば力点が変わるというご認識を持ってらっしゃったようで、一方また日本ていうのは、世界の鏡みたいなところがありまして、日本は世界を映すというところがあります。ようこれらの世界を見ていますね。

 ですから、日本を見れば、世界がわかるというところがあるように思うんですけれども、戦前は帝国主義の時代ですから、日本が帝国主義列強の一員にならなければ、植民地にされるというようなことから、その一員になりまして、いわば軍事力を中心にした国づくりをしたと、つまり、力の体系を中心にしたわけですが。

 そして、戦後は、先ほどの軽武装論というのにあらわれていますように、武力は最低限、必要最小限でよろしいと、経済力をつけなくちゃいかんということを明確にされました。しかし、その路線がうまくいくにつれて、60年代、既に繊維産業でアメリカに食らいつき、70年代には、もう重化学工業でアメリカを抜いて世界一になってですね、造船業、鉄工業で世界一になりまして、80年になりますと、自動車産業ではアメリカの国内生産高を、その年で抜いてしまうというようなことがあって、その後、電化製品等々、メイド・イン・ジャパンが世界を席巻いたしまして、大体80年の中期ぐらいに、アメリカと対等の立場になって、メイド・イン・ジャパンという世界を席巻するアメリカが一目置くと。アメリカに残されているのは、マネーゲームと軍事産業しかなくなると。後は、いわゆるニューインダストリーと言いますか、バイオとか、それからナノとか、そうした新しい産業、こうしたところでは今、横一線でありますけれども、ともかく、日本がアメリカと対等の立場に立って、そして、そのいわゆる先進国の中で、アメリカに次ぐ第2位のGDP、今、日本は、フランスの3倍、カナダの6倍の国力というか経済力を持っています。

 そうした中で、そういう力をつけてきた中で、次に必要なのは何かと言うんで、高坂さんは、文化、芸術だと言われたんですよ。彼がこれ命名したわけです。

 実は、学部も経済政策とか交通政策とか産業政策がいるように、文化をマネジメントできる、文化政策というものを持つべき若人が日本にいないといけないということで、文化政策学部というのをつくらんといかんと、文化政策学部をおつくりになった。

 それから、いろんなものをつくっても、やっぱりそれは単に機能があるだけではないと。それが、いいなあと思わせないといけないと。だから、デザインというのが必要だと。小さなものから大きなものまで、小さなものだと工業製品ですね、大きなものですと地域の景観とか、さらには都市景観とか、これは木村先生が得意だったところでありますが、それからまた国の景観ですね、そういうデザイン、デザイン力とか必要だと。だから、デザイン学部ってのがいるっていうこと。文化政策学部とデザイン学部でやれ、これでいくぞってことでですね、そういう人選をして、あと文科省に、その認可をいただくというところでですね、倒れられたんですよ。

 そのときに、その木村先生が、あの方はもう東大をやめて、私はもう悠々自適でいきたいとおっしゃっていたわけですが、これは高坂先生の意志だということもあって、ちょうどここの会の会長を、渡辺先生という知恵者がいて、それとご一緒にずっとやってこられましたが、高坂先生と二人三脚でなさっておられた、その木村先生、高坂先生が亡くなられてしょうがないということで、初代学長につかれて、そして7年間やってこられて、競争率は7倍、8倍です、ずっと。

 だから、いかにこういう学問が必要かということなんですね、文化力というものが必要だと。

 だから、経済力、その前には軍事力ですけど、軍事力、経済力というのは、これはどういう国かというと強い国です。強い国をつくっていこうと、こうやってきたわけです。

 今度、文化力って何でしょうか。文化力っていうのはですね、いわばその軍事力っていうのが、人を殺す、殺傷する、家を破壊する、環境を破壊するということで、外に出れば破壊する力、外に向かう力ですね。そして、経済力も安くって、いいものつくって、外の市場、国際市場を席巻していくという外に向かう力ですけど、文化力っていいなあと思わせる力ですから、引きつける力です。美しいってやつですね。いいなあと、こう思わせる力。これが、文化力だと。

 そしたら、なんと21世紀になって、構造改革ってことで、ともかく何だかんだこれから今までの旧来の陋習を改めて、新しくしていこうという中で、安倍さんが昨年秋に登場されて、美しい国づくりって言われる。

 先ほども衛藤先生が、美しい国づくり、美しい朝ごはんなんて、ちょっと無理がある言い方だとは思いましたけれどもね、ともかく、すべての方が美しいということを合い言葉に使われるようになったわけです。それを何となくどうもこういうことらしいなという、その共通理解があって、そして安倍さんはですね、美しい国づくりの基礎に教育再生を置くというふうに言われたわけですね。

朝ごはんの大切さ

 今、教育再生会議、第一次報告、第二次報告、そして最終的にはですね、恐らく6334制の見直しも含めて、相当な思い切った改革案が出されるかと存じますけれども、そこでですね、陰山先生という岡山の小学校の校長先生をされて、今は、抜てきされて立命館大学の教授で、立命館がつくりました小学校の校長先生をされていますが、この人がですね、百ます計算で有名であると同時に、もう1つ彼は非常に馬力のある方でですね、早寝早起きする子、朝ごはんを食べている子と、遅寝遅起きで朝ごはんを抜いてくる子との成績を比べたわけです。あちらこちらで。そうすると、驚くべきことにですね、どこにおいても同じ結果が出たわけです。早寝早起きして朝ごはんを食べてきている子は成績がいいんです。そして、夜、夜更かしをして朝寝坊して朝ごはんを食べられないで来た子はですね、成績が低いんですよ。これは関係があるというわけです。そして、どういう関係かというと、それはそうでしょう。ゲームをしていると。そうすると、お父さんやお母さんはですね、夜遅いとかあるいはあまり構わないと。そして、朝は眠たいから起きられないので、ごはんを食べないで学校に行くと。体育の授業で、あるいは4時限目の時間になったらお腹が減って集中力がなくなるから、それはもう学校の授業を聞いていないので、それで自然に成績が落ちるということでですね、早寝早起き朝ごはんという生活習慣は、学力を上げるのに不可欠だということを、データを上げてみんなに言ったというわけですね。それで、なるほどそうかということでですね、我々は早寝早起き朝ごはんじゃなくちゃいかんということになったわけです。そしたらですね、実は早寝早起き朝ごはん運動があるわけですよ。会長はどなたかご存じですか。有馬元東大総長、元文科大臣です。そして、副会長が2人ほどいらしてですね、その1人が陰山さんなんです。そしたらごはんを食べよう国民運動はですね、それの降順を配するわけにはいかないでしょう。朝・昼・晩ごはんといいたいんですけども、晩ごはんは晩酌のイメージがあるので、一応、子どものことも考えて夕ごはんというようにしてですね、何も朝ごはんだけではあるまいと。早寝早起きして、きっちりとお父さん、お母さんとできれば一緒にごはんをいただいて、そして元気に行って来ますと言って学校に行くと。

 どうして朝ごはんだけ言うかといえば、もちろんお昼は給食が出るからですね。今は給食、地産地消というようなこと、あるいは食育ということでですね、ごはんを食べるそういう機会もふえてきたようですが、私のときには脱脂粉乳の牛乳を飲まされて、牛乳というのはいかにまずいかという、それで育ってですね、外国に行って本物の牛乳というか、その彼らが普通に飲んでいるミルクをいただいてですね、ミルクというものの持っている広がりですね、いろんなものに使いますから。スープからクリームから、チーズも含めてですね、酪農の文化を持っているところのミルクというものの広がりを知ったわけでありますけれども、そういう中で給食というのはまずいというイメージもあったわけですが、今はその給食問題、ご承知のように給食費を払わんという人がいるわけですね。その給食費を払わない、これは義務教育だから当然だろうとかいうようなことを言って、それが何億というお金に達しているわけですが、食育をいう以上ですね、給食は授業でしょう。授業じゃないといけないと。今回、つくられました食育ドリルというのがありますけれども、これは非常にいいものですね。小さいものですけれども、非常にいいものだと思いますが、私は、食育というのは、給食において、小学校においてですね、授業としてとらえるべきだと。授業に授業料を払うのは当然です。そういう言い方もできるわけですね。

 さて、ちょっと話を変えますけれども、私は、この夕ごはんというのはですね、この文化力を上げるというそういう脈略でですね、その文化力を上げるというのは、日本に対する関心が高まってきているということも関係しております。日本は今まで、欧米にキャッチアップをすると。しかし、基本的にですね、幕末からやってきた欧米へのキャッチアップは、大体1980年代にほぼ終えて、我々は欧米諸国から一目置かれるし、欧米以外の諸国からはあこがれられると、注目をされる。内外のすべての諸国から注目をされるという、そういう国になりました。なっております。

 しかし、我々の中には、欧米、アメリカに対してあこがれといいますか、それを追いかけるという意識があるためにですね、その意識転換というのが十分にできていないわけですが、本場が日本になりつつあると。学ばれる本場が日本になりつつあるという、そういう意識ですね。

 ちょうど、これまで100年間ですね、テキストといいますか本場というのは欧米にあったという時代があったわけですけれども、欧米に学んで欧米にあって日本が必要だなと思うもの、ほしいと思うものはですね、大体全部入ったんじゃないでしょうか。入り終わったと思います。それの典型的な場所はどこかというと東京だと思います。東京というところは、欧米の文物を入れる、いわば需要の場所といいますか、そして、そこから高い電圧で入ってきた欧米の文明をですね、日本の電圧に合うように下げまして、そこを変電所としてですね、日本各地に配電していくという変電書の機能を担って、そして東京から送られてくるいろんなその欧米の文物のハイカラなものに対して、我々はあこがれてですね、もうそこから東京が見えるかいというふうな三橋美智也さんの歌がありましたけれども、私は京都の生まれですけど、にもかかわらずですね、東山連邦三十六峰眠れるごときですね。あの三十六峰の東のさらに果てには富士山があって、その向こうに東京があるんだなあなんつってですね、恥ずかしながら東京にあこがれたということを告白せざるを得ないわけです。京都ですらそうですよ。ほかの人はどうですか。今は違うかもしれませんが、かつてはそうでしたよ。東京の向こうに何があるかというと、欧米があったわけです。それがあったわけです。

 そして、欧米の文物はですね、例えば今でのそうですけれども、イギリスで本が出されると。最大の市場はアメリカで次は日本ですから。アメリカで本が出ると、アメリカで一番売れます。次に、売れる市場はイギリスでもほかの国でありません。日本です。つまりですね、その明治以来、向こうの本を読んで、そして学んできたわけですよ。だけど、学んでいってもですね、見たいわけです。本場に行って勉強する。フランスに行く、ドイツに行く、イギリスに行く、あるいはアメリカに行くと。戦後はみんなアメリカですね。戦前はどちらかというとヨーロッパであったと思いますけれども、本場に行くというふうにしていたわけです。その本場のものが入り切っても、ミニ東京なんて言われるのは嫌だとみんな思っている。東京都は違う、我が町オンリーワンでありたい、ナンバーワンでなくてもいい、オンリーワンでありたいという。それは、国民等しくですね、みんな思っていますよ。我が町の宝、我が村の宝、これをこの宝を掘り起こしてですね、そして、発信したい。東京にはない、いいものがあると。東京の人もですね、学ばなくちゃいけない。

 それで、今は安倍さんがまだ官房副長官だったときにですね、都市と農村山漁村の対流と交流推進会議というのを、彼が中心になりまして、農水省が事務局になってですね、厚労省だの文科省も入っていると思いますけれども、国交省等々7省庁の副大臣と一緒につくられてですね、そして、それを国民運動にしようというんで、それは要するに、東京を中心とした都市の子どもたちを、農村山漁村に留学させてですね、その日本のよさを見せたいという。だから、学ぶ場所が東京じゃなくて、向こうに変わっているという、その運動です。それを、彼が官房副長官のときに始められたわけであります。

 そういう、かつて本場であったその欧米に行くという、その窓口であった東京。東京にほぼ欧米の文物が入り終わった今、実は、日本に、例えば中曽根さんのときに、80年代10万人の留学生を受け入れようじゃないかと言ったわけです。そのとき1万人です、来ていたのは。10万人って言ってたんです。今、幾らでしょう。2003年に1万人を超えました。20年で1万人超えたんです。今、十二、三万人いると思いますね。来たいという人はいっぱいいるんですよ。そして、海外の研究者もたくさんいます。だから、我々はですね、明治以来、欧米にキャッチアップをするという時代を終えたと、こういうわけです。

 それからもう1つですね、終えてですね、この国自体の文化力が、体系的に魅力あるものに再編制されると。もちろんその文化の一番の基礎は、言葉であり、食文化であり、そして、衣料文化であり、何でこんなに暑いのにですね、ネクタイをしなくちゃいけないんだとか。それを今はクールビズといってノーネクタイが言われています。実は私はね、渡辺先生ごらんなさい。ぴちっとされているでしょう。どっちがいいと思います。難しいですよ。クールビズはエコに優しいと。だけど渡辺先生はジェントルマンなんですよ。これはですね、とるでしょう。とってですね、ネクタイ外したら下着です。ですからブレアさんがですね、今、首相ですよ。あそこも暑い。だから、上着をとるでしょう。上着をとりますけどもインタビュー、BBCのインタビューがあってそれが全国に、全世界に放映される。絶対にネクタイ外さないですよ。なぜかというと、これは下着でないということのあれですから。だから、これ向こうのドレスコードというのがあるわけですよ。ちなみにですね、食文化で有名な浜美枝ちゃんという、藤原紀香さんの前の前の世代ぐらいのボンドガールで、皆さん見ましたよね。その方が、ジェームス・ボンドというか、向こうの俳優が来た時に、俳優はとるでしょう、ワイシャツを。着ていないです。我々はこの下に下着着ていますけど。だから、我々は、これを下着を思っていないんですが、実際は着ていないんです。大体歴史を見ればわかります。向こうは、もともと絹織物しかなかった。インドから木綿が入ってきた。それを下着として、夏着として、下着として使ったわけです。だから、この下に下着を着るというのは、我々がじゅばんを着てその上に着物を着ていると、そのように外見だけは向こうのものをまねるということでですね、こういうふうにやっているわけですけど。

 ところがですね、そういうそれぞれドレスコードがあって、日本にも江戸時代にはですね、例えば来年、天璋院篤姫がですね、あれがありました。宮尾登美子さんのを読まれるとですね、もうそれは、衣がえのいついつには何をするって出てきます。衣がえというのは、万葉集の時代からあります。ですよね。江戸時代には制度化されています。だから、この夏にネクタイを締めているというのは、全くおかしいですよ。しかし、これはおかしいからですね、だからああいう小泉さんみたいな思い切った人がですね、クールビズでいくと。クールビズってあのときたまたま環境大臣が小池百合子さんでしたっけ、小池百合子さんじゃないかな。きれいな足を見せてですね、新聞全部半面、一面とってですね、私はいかにきれいな足をしているかという感じで出ておられましたな。だけど、男がそれをとると、あのとき細田官房長官ですから、がりがりでしょう。名前のとおりのような方でしてね。そして、BBCだとかあるいはCNNでですね、全世界に放映された。裸でやっていると。だから、イギリスやなんかに行ったら、ネクタイを、タイ着用っていうじゃないですか、クラブで。下着で入っちゃいかんということです。持っていなければ貸してくれます。それで入ることができます。そういう文化が向こうにある。

 ところが日本はですね、明治時代に、ドレスコードを天皇陛下が軍服をお召しになって、公式のときには何といいますか、洋服と。家に帰ったら和服と。男の場合だけです。女の人は全く自由だから、今でもどういうあれをしてもいい。ところが、男は公式の席上では洋服ということになっちゃったのでですね、これを和服にすると羽織はかまは別ですけれども、そういうものが全然対応されないまま今日に来ちゃったためにですね、衣がえといったときに、これとる以外なかったんですね。だから、こういうことにもあらわれていますが、私は、あそこは、例えばイギリスは北緯50度じゃありませんか。ロンドンでも北緯50度です。日本の稚内が北緯45度ですよ。それよりさらに5度高いところ。ましてやここは、温帯地域です。ですから、だから地中海ですよ、緯度としていえばですね。そういうところですからね、やっぱり入れないといけないと、風を。そのためにはどうしたらいいかを考えなくちゃいけない。そういうこと、つまり衣料文化もですね、試されているわけです。

日本の食文化とは?

 住文化だってですね、我々はコンクリートのところに入れられたと。ところがですね、やっぱり木がいいなということで、今、注目されていますよね。そういう文化への、日本の文化への回帰といいますか、見直しというものの中に、実はこのごはん運動も位置づけることができるというふうに思うんですね。ですから、実はごはんを食べるったってですね、これは単にごはんを食べるかというとですね、そのお考えくださいませ。ごはんがあって、おかずがあってですね、そしてお茶というものがありますわね。これは、みんなセットになっているわけです。こういうセットとしてのといいますか、いわば文化複合としても、難しい言葉でいうと、そういうものとしての食文化の一貫、一番の基礎をなすごはんという、それを見直すという時期にきているんではないかと。食文化、朝・昼・晩と、ごはんとして食べるということに、その日本の食文化の基礎がある。

 これはですね、ごはん、これイネ科ですね、イネ科がいつ栽培植物になったのかと。これは長い間、きょう帰られましたか。京都大学の渡辺忠雄先生が、どうも稲の文化の起源はショヨウジョリン地域にあると。雲南・アッサムにあるんだということで、ところがどんなにさかのぼってもですね、3000年前ぐらいしかこれないということらしいですね。ただ、そこで見つかったのは芋だと。その芋が食べられていると。それのどうもサイドディッシュといいますか、それの代替食として、ねちねちして芋のようなもちの物が食べられたらしい。最初は赤米でモチ米だったらしい。それがですね、だんだんそれで赤米でモチ米の方ができるので、もともと雑草ですからね、それが人間が多くなると下にはじき飛ばされてですね、下流に下るにつれて、米がウルチにかわり、そして白米に変わっていって、水田、水稲に変わっていった。それがですね、黒潮に乗って日本に来たのではないかと。

 一方、中国では、湖南省の城頭山というところで都市遺跡を発見されまして、米があるんですよ。6500年前なんですね。そうすると、もうそれは黄河より古いです。黄河は、4000年前ですから。だから、その揚子江文明はこれが一番古いと。だから、河姆渡という河口から、さらに中流域の城頭山まではさらにさかのぼるとですね、ともかく米としては1万1000年前までさかのぼれる。そうすると世界で一番古いじゃないですか。メソポタミアより古くなります。あちらはこの当時は小麦だったんです。

 そして、中国の場合には黄河文明、これは畑作、牧畜ですよね。その麦とあるいはこうりゃんと、そして、牧畜で肉を食らうと。そして、揚子江や稲作漁労ですよね。我々と一緒で稲で炭水化物をとってお魚でタンパク源をとるという。それがどうもある年にですね、あるときにですね、寒冷化のためにそこを追われて、そして人々が離散するという、ボートピープルになる。それがですね、この辺は全くの荒唐無稽の話というか仮説なんですけれども、それがですね、どうも九州にたどり着いて、その九州あたりからだんだん北上していって、九州はご承知のように南の方は、例えば笠沙というところがあります。これ古事記に出てきます。古事記の中に笠沙というのが出てきます。笠沙というのは、九州の鹿児島県の西側ですね、にあたります。そこは、ちょうど黒潮がぶち当たるところで、そこら辺に看板が立っていましてですね、「不審な人を見つけたら通報すべし」と書いてあるんですよ。つまり、そこは流れ着くところなんですね。だから、そこに、多分そういうところが笠沙として残った。

 ところが、鹿児島はご承知のような火山灰のシラス台地ですから、米に向いていない。だから、だんだん、だんだんとですね、今はしょうちゅうができてちょっと困ったことですわな。米のかわりに、米ができないので、暑すぎてですね、お酒がつくれないわけですね。そのためにですね、たまたま17世紀にしょうちゅうっていうのが沖縄経由でつくれるようになったと。泡盛の技術を利用してしょうちゅうっていうのが17世紀に入って一斉に鹿児島に入るわけですけど、それは酒として、酒と呼んだわけですが、宮路さん、帰り際に何ておっしゃってます。「川勝君、うまいしょうちゅうがあるからな。」と。あの人は鹿児島の人ですからね。だからしょうちゅう好きなんですよ。酒といえばしょうちゅう。清酒の酒といって、ひょっとしたらしょうちゅうのイメージを持っていらっしゃるんじゃないかと、済みません、思うぐらいでありますが、それはおもしろいですよ。あれば蒸留酒でしょう。蒸留酒でありながら、その食中にたしなむことができる珍しいものです。蒸留酒であるもの、例えばブランデーにしてもあるいはウイスキーにしても、食後にたしなみますね。ところが、薩摩でお酒に対する物すごいあこがれがあるから、食中にお酒というふうに見立ててですね、しょうちゅうを飲んでおられたわけですね。それがようやく、臭みがとれてですね、そして今や健康にもいいっていうことで言っていますけれども、要するに、なかなか米ができなかったと。その米がですね、やがてできるのが後に大きなあそこの吉野ヶ里のようなすばらしい弥生文化のあれができたと。それが、今からもう2000年ほど前。

 これがですね、どういうふうにその後なったのかといいますれば、今、日本で一番の米どころはどこかというと、先ほど岡島さんが西日本は作況が100以下になっていると、毎年。どうも洪水とかですね、豪雨とかでですね、どうも100に達しないというようなことをおっしゃっていましたけれども、北がいいと。石狩が一番だとおっしゃりました。しかし、石狩、石狩で米ができたというのは、大したもんですよ。なぜかというと、例えば戦前、宮沢賢治さんがなぜ死んだか。あの人はひでりだとか、あるいは日照不足でですね、グスコーブドリの電気のように雨を降らせるために死ぬ青年をあれに書いたりですね、自身自身もその資料をどうするかということで、ともかく宮沢賢治はいかにして品種改良をして、あの北の大地に米を根づかせるかという時代が1920年代、30年代のことでした。

 ところが、戦後になると、気がついたら津軽平野が日本一の米どころだと。そして、今気がつけばですね、その北海道、北海道で「きらら」でしたかね、あれ。あの「きらら」っていうのは、何号までいきました。ともかく、10、20、30、これは品種改良の番号ですよね。札幌農学校の伝統を得ながらですね、ずっと北海道大学農学部とその現場とが協力しながらですね、土壌改善をし、そして、その石狩平野を米どころにして、今、「おぼろづき」という、その「こしひかり」よりもうまいものを科学的に分析して、うまさがどこから出てくるかというのをつくったという。北海道の米が、何と石狩平野が日本最大の米どころになり、かつ一番うまいものをつくっているという、こういうわけであります。

 つまり、河姆渡やあるいは城頭山あたりでできたものがですね、最終的に北海道まで持ってきた、その日本の米作というのは、これはですね、文明の北上ということとかかわってきますですね。日本の文明というのは、もともと西から来たと。その西といったって、どこかというと、インドあたりからガンジスベースのあたりからですね、ヒマラヤを越えて、あるいは黒潮に乗って日本にたどり着いて、だんだん西からずっと東北の方にいって、北海道にまでいっているわけです。その北海道、これは文明史的に言えばメソポタミアからずっと地中海を越えて、そしてアルプスを越えて、ラテン地域に入ってフランスに入ってですね、チャンネルを越えてイギリスから大西洋を越えて、西へ、西へ、西へという、そのフロンティア開拓をしたアメリカ人と日本人が一緒につくったのが北海道です。だから、北海道っていうところはですね、西洋の文明と日本の文明とが出くわすところで、科学的な治験とその日本の米作とがですね、見事に和合してでき上がっているのが、私は、あの「おぼろづき」じゃないかと思いますよ。本当に、励ましてさしあげたいとこう思うわけですが、私が申し上げたいのはですね、こういう過程で米はどうなったのかというとですね、芸術品になったと思っているんですよ。ごはん自体は日本食ということで大変なブームで、健康食だということでですね、世界中に広まっている。じゃあ、ごはんはどうかと。それはもう、例えばですね、タイに行くと浮稲がある。あれはいわゆる雨季にはどんどん、どんどん10センチ、20センチ、30センチこういうふうに水がたまっていきますから、したがってそれに応じてですね、つまり、人間がしないでも稲の神さんご自身がですね、みずから背を高くしないと水におぼれてしまうということでですね、2メートル、3メートルの浮稲ができる。だから、あそこでどうして米を刈っているかというと、刈れないので穂摘みですよね。穂摘みをしている。日本は江戸時代から全部根刈りじゃないですか。高さが等しいから。

 そしてですね、そういう観点で見たら、例えば、今から何年前ですか、1697年ですから、宮崎安貞農業全書が書かれたのは。310年前ですね。310周年記念でありますが、宮崎安貞が農業全集を書くと。それは、後のマニュアルになって、今で言うマニュアルになるわけですけれども、40年の歳月をかけて武士が書いたマニュアル。その中で、一番ページが割かれているのは米です。10ページ。文庫本で10ページです。次いで、綿が9ページであります。その10ページの記述、これを見ていきますとですね、いつ何をしたらいいかということを事細かに書いてあるわけです。これはですね、何でもないことのようです。ところが、これは片や反対側の、地球の裏側にいきますとですね、農業というと、例えば19世紀の中庸でもミレーの種をまく人ありますね、岩波書店のロゴマークに入っています。種まきが描かれている。そしてですね、その後、落ち穂拾いってあるでしょう。それから手を合わせて神に感謝する晩鐘という有名な絵があります。種まいて落ち穂拾って晩鐘して終わりと。要するに粗放農業です。アメリカなんかもっとすごいです。それに比べたときにですね、手を入れて、ハートを入れて、そして稲の言うことを聞き、それからまた土のいうことを聞きながら水を管理して肥料を管理してですね、そして、日光と太陽とのかかわりを計算しながら育てるというは何かというと、これはお花づくりと一緒で、つまり庭づくり。庭でですね、その花も実もなるうちの実もなるものをつくっているのと等しいでしょう。

 したがって、幕末にですね、欧米の人が来たときにこれは園芸だと言ったわけですね。日本には農業がないと。アグリカルチャーではなくて、フォーティカルチャー。フォーティカルチャーというのは園芸と訳されます。園芸とは何かといったら庭じゃありませんか。庭づくりの農業をやっているんです。庭づくり、すなわち日本は庭という芸術を、農業においてやっているんです。その一番の中心が米じゃありませんか。だから、米自体がそういう芸術品だと。だから、それをどうありがたくいただくかという、そのいただき方にも作法があり、そしてセットがあってですね、それがですね、私はごはんを食べるということにかかわるというふうに思うわけですね。

 つまり、例えばケーキをおはしで食べるとまずいですわな。そんなことないかしら。ケーキをおはしで食べてください。ショートケーキをですね。ショートケーキは日本がつくったそうですけど、いちごを入れるのはフランスにはないそうですけど、ともかくですね、向こうのケーキをおはしで食べるとですね、まずく感じますよ。

 同じように、ごはんをフォークでほおばるとですね、何となくお茶わんのごはんですと、だからやっぱりセットがあると。そうすると、そのセットを考えるとですね、やがて日本というのはどの時期にこういうごはんの食文化をつくり上げたのかということにもかかわってくるというふうに思うんです。

 それはですね、ちょっと話が前後して恐縮ですけれども、私は、今、明治から100年たってですね、ほぼアメリカの文化を入れ切ったと。その中心は東京だというふうにこう申し上げました。その前にですね、この国は中国の文明の恩恵をこうむってきたわけであります。その中国の文明の恩恵をこうむるために、留学生を派遣し遣隋使、遣唐使、遣民使とかそういうものを派遣してきましたけれども、それが全部終わった時期があります。それがいつかと。これはもう奈良時代、平安時代、ことしは2007年ですが2010年になりますと平城京遷都1300年ですか、ということになりますが、平城京を見たら中国人は「わあ、中国」だと言いますよ。中国をそこに入れた。それから平安京を見ても全く一緒であります。碁盤の目をつくって、そして北に内裏を入れてですね南に羅生門つくるという。それは中国の唐のモデルを入れてきているわけであります。鎌倉時代も、これは鎌倉はいわゆる鎌倉五山、これは唐の次の宋という国があるわけですが、宋というのは上から押されて南宋っていうことで国がありまして、揚子江に都を150年ぐらい置くわけです。リンヤンというところに。そのときに、平安末期から鎌倉にかけて日本は影響を受けてそこから亡命してきた学者のいうことを聞いて鎌倉に五山をつくるわけです。五山というのは、南宋で初めてつくられました。その模倣ですね。そして、室町時代というのがありますね。京都にも五山があります。南禅寺筆頭にですね、東福寺、建仁寺とか万寿寺とかですね、天龍寺、相国寺とこういうのがあるわけですけど、それはみんな周りにあります。京都の周りにあります。ちょうど真ん中には、唐の長安の北の中国の文化を入れ込んで、周りに中国の南の文化のエッセンス、これは禅ですけど、禅とお庭とそして座禅ですね。この文化を入れ込むわけです。だから、室町時代まではですね、中国の文化の影響が非常に強いですよ。しかし、そのときまでです。

 その後ですね、例えば日本の能とか歌舞伎とか、あるいはお茶とか生け花とか日本庭園とか、日本の着物とか食文化とか、これいつ出てきたかというと、室町末から江戸時代にかけてですね。そのときにですね、つまり日本の伝統って出てくるんです。宮崎安貞が1697年に農業全集を書いたと。その字を見るとですね、中国の徐光啓の農政全書を範にとりつつとこう書いています。農政全書というのは、中国における漢の時代からの農書を全部まとめ上げて、実際、それ以前にアメリカ大陸か芋とかトウモロコシとかそういうものが来ていますから、最高の農政全書です。農業のマニュアル。それを参考にしながらですね、これは、私自身は専門家ではありませんけれども、古島敏雄というですね、昔、大先生がいらっしゃいまして、その人が昭和21年に日本農学史第1巻というのを出されていますけれども、それを読んでいかれますとですね、古島敏雄全集というのが出てますから、今でも読みますけれども、その古島先生のご本を読むとですね、中国の農政全書とこれは民の間に書かれるわけですね。その数十年後に農業全書という日本の宮崎安貞が書かれた。これはですね、工夫があるんです。そして、中国の農政全書をマニュアルとして抜いているというのが結論です。中国を抜いたというのが結論です。だから、それ以前、そして宮崎安貞はですね、日本にたくさん向こうから入ってきている砂糖だとか、昔は木綿だとか生糸だとかそういうものが入ってきている。こういうふうにして日本のお金が出ていっていると。こういうことをしていると、日本の国がよくないと。

 したがってですね、これはどういうふうにして種芸を、つまり農業をしたら生産力が上がるかということについての無知からきているから、私はそれを聞いて、また各地を見て歩いてですね、これをまとめたというふうに書いているんですが、その過程でですね、その経験を踏まえて向こうのものよりも安く効率的にできる、そういうものをつくったという、そういう記録であります。言いかえますと、中国を抜いたという記録で、その結果、中国文明から日本は自立したという、そういう記録なんです。

 私は、今、何を申し上げたいかというとですね、その室町末までに日本は中国の文明にあこがれて、中国っていうと先ほど申しましたように黄河の畑作、牧畜文明と揚子江の稲作、漁労文明という、いわば2つの中国というのがあって、それより一番古いのは稲作、漁労じゃないかと。いわば、中国には2つの国、2つの文明、2つの中国があるという話でありますけれども、そういうですね、この中国、その世界最古とも思われるその中国の文明を、私は、室町末までに日本は抜いたというふうに思うわけです。

 そして、明治期になりますと、日本の食文化、それから作法、茶の湯、庭づくり、そうしたものが確立いたします。つまり、日本の食文化も住文化も衣料文化も衣食住の文化、これが確立したのではないかとこういうふうに思うわけですね。その中心をなしたのが米だったいうことなわけです。だからですね、その米の復活というのは、実は、恐らく食事としてはいろんな食べ方がされるでしょうけれども、茶の湯における、最初にですね、今回も、きょうご飯いただきましたが、まずお茶が出ると。そして、しばらくするとお弁当が出て、そして最後にまたお茶が出ました。最初に薄茶を出して、そしていろいろと歓待してですね、最後に濃茶をいただいて、そのときにどこでいただくかというと、周り庭ですよ。自然なんですね。そこの中でいただく。そして、それぞれ器、それから出すもの、そうしたものについて、ご主人の方が心を配るということをしているわけです。

 それがですね、朝・昼・晩ごはんの背景にある文化だと。食文化だと。これを見直そうと。これはですね、これはですね、今、我々は室町末までに中国の文明を入れ切った。そしてですね、今、平成の初めぐらいまでに西洋の文明も入れ切ったと。言いかえますと、東洋の文明にあこがれてそれを入れ切って卒業した。そして、また西洋の文明を入れ切って、そして卒業した。そして、我々は世界からすごいねと、中国人からもアメリカ人からも、ヨーロッパ人からもすごいねと言われてですね、気がついたら日本の文化、カラオケだとか漫画だとか、あるいはそのファッションだとかですね、そして日本食、これが世界に出ていっているんです。

食育への意識の高まり

 本場でどういうふうにして食べて楽しんでいるんですかということは、当然、我々自身が、これをいわば体系的にきちっと見せないといけないということではないかというふうに思うわけです。ですから、もうテキストは実はどこにあるかというと、北海道の農業と、それはもう沖縄のサトウキビの農業と違いますから、それぞれみんなその土地の特産品があって、それに応じたその食文化をつくり上げていますから、それが全体として日本の食文化というものになっているわけであります。多種多様な形でこう見せてさしあげるという時期にきている。そのためには、自分たちのことを知らねばならない。自分たちのことを知るということは、実は、テキストがもはや教科書にないということです。教科書はどこにあるかというと、現場にある。自分たちの地元にあるということであります。

 そしてですね、そういう運動の1つが実は食育運動です。給食を授業というふうにしてとらえかえすということです。そしてですね、ここでこういう国民運動、ごはんをたべる国民運動を推進されている方が、単にですね、農業の発展のために、自給率を上げるためっていうことではなくてですね、日本の食文化というものを子どもたちに継承させるための先生として、それをいわば広く文明論的な観点からですね、これはどこに出しても恥ずかしくないものなのだという、そういう観点で、我々はこの食文化をイグジビットしていくと、見せていくという、そういう段階にきている。テキストは、もはや教科書ではない。

 そして、教科書ではないという、あえてそういうことを言うのはですね、そもそも、その教科書を我々は必要としてきました。それは、いつからかというと、これは明治の5年からですね。明治の5年のときにですね、子どもたちに何を教えるかというときにですね、かんかんがくがくの議論があったわけです。それまで四書五経あるいは歌詠み何かが出てきましたから国学というようなことでやって、コウセイフッコウになったから国学を教えよう、いややっぱり論語、あるいは大学をしっかりマスターせんとだめだというような、いろんな議論があったわけですけれども、明治5年にですね、もしそういう国学とかあるいは漢学をやっていると、決して日本は強くなれないと。だから、日本はこれからは実学をしなくちゃいかんという、そういう議論が沸騰いたしまして、そして明治ごろの初めにはですね、「学問のすすめ」において、福沢諭吉さんが国学とか漢学をやりたいというふうに子どもが言ったらですね、お父さん、お母さん、心配でしょうと。だから、これからはそういう学問じゃありませんよと。これから必要なのは医学です。工学です、理学です、経済学です、法学です。こういう実用の学が必要だということを、明治の5年の2月にぽんと書いた。それを日本中の人たちがそれを読んだ。それを受けた形で、その秋に学生ができて、日本全国、全部洋学を教えると。だけど教える先生がいないから、外国人の人に来ていただいてですね、それは軍艦を買うよりもあるいは工場を買うよりですね、軍艦をつくるノウハウ、工場をつくるノウハウ、それを手に入れれば、時間はかかるかもしれないけれども、やがて日本の国力を上げていくということでですね、向こう側の外国人に高い給料を払ってやってですね、向こう、だからいろんな人が来ましたよ、フランス人とかアメリカ人とかドイツ人とかいろいろ来ました。ところが今、皆さん見てくださいませ。日本の大学幾つありますか。4年制大学だけで744ありますよ。短大入れたら1,200あります。大学の先生が教えている。大学の先生の数はどのぐらいかというと、17万ですよ。玉石混交というわけで、石が多いということですけど。

 ただしですね、田中幸一さんのように、民間の学者もいます。そういうのを入れると数十万のPHDがいるわけです。でも日本人です。つまり、日本人が日本語で日本の青年にですね、欧米の学問を完全に教えているわけです。そこから書かれているエッセンスがテキストです。そこまでですね、全部入れてしまって、例えばこの建物はどのぐらいの耐震度か知りませんが、例えば日本はここでいつ地震がくるかしれない、台風も来ると。だから風速60メートルに耐えるだけのそういう建物。耐震度も十分にある建物をつくるとなればですね、高層建築つくる技術だったら、これはヨーロッパ、アメリカにも負けないですよ。

 要するにですね、その対等以上なんです。そうすると学ぶことがなんといいますか、退屈というかルーチン化していますから、それはおもしろくないです。荒れます、教育は。

 そもそもですね、一番の今教育は、子どもの時から親から問題だと言われています。そのとおりですよ。先ほどの先生も美しい親子、美しい朝ごはんなんて言っておられましたけれども、そもそも日本の教育はどこから崩れていったのか。考えてくみてださい。一番最初に崩れたのはですね、幼稚園でも小学校でも中学校でもありません。大学ですよ。大学のトップです。トップかどうか、東京大学ですね。1968年にストを起こしたでしょう、理学部が。あれはあってはならないことです。柳原忠生先生がですね。総長だったときに、柳原三原則を出されて、絶対にストなんか、国民の税金で国家のために働いているものが、ストなんてのはそういう辞書はないと。だから、やりたい、ストやりたい、即退学。自治体、そこで即退学、何、そういう議会がある、退学。全部退学ですよ。ところが医局が対応を誤ってですね、医学部がストに入った。それがすぐに理学部に波及してですね、全学ストに入りました。68年です。それが、聖心女子大学とかそういう特殊な大学を除けばですね、全大学に波及しましたです。69年には東大の入試がなかったんです。何のための教育なのか、それを問うてると。それは考えなくちゃいけない。あるいは庄司薫さんがですね、赤ずきんちゃんとか黒ずきんとか、黒ずきんだったけな、青ひげサンタとか、そういう白馬の騎士だっけ、ああいうのをお書きになってですね、68年ですべてが終わったとこう書いているわけですね。東京でも京都でもそういうものが書かれて、そしてですね、その大学が荒れると。荒れる中でですね、それが予備校から高校に波及していって、大学自体は機動隊が入ってきて平穏になりました。

 だけど、問題は何のための大学、何のための教育かというようなことを問い始めたら、それはですね、高校生が何のために大学に行くのと、いい大学に行って、いい会社に行く。それじゃあ青年は満足しないですよ。暴力を起こす。校内暴力は1970年代の高校の風景でした。

 80年代になったらどうなりましたか。81年に「積み木くずし」が書かれたでしょう。あれは何ですか。中学3年生の女の子が学校に行かない、不登校ですよ。外泊をする、シンナー遊びをしているらしい。それを赤裸々に記録を書かれたら、それが何百万部と売れました。つまり、人ごとでなかった。80年代は、中学生の不登校問題が全国で吹き荒れた時代です。 90年代はどうなりましたか。今度は小学校で学級崩壊であります。だから、トップから崩れていってるんです、ずっと。60年代の末は何が起こったのかといったら、日本がアメリカに食らいついてですね、それなりに日本がめどがついたときですね。それぐらいのときからですね、もう十分に日本に立派な先生もいらっしゃるし、そういう人たちが書かれる教科書はですね、どこの出版社から出そうとかわりばえのしないものになってですね、新鮮味がなくなってきたのです。だから、もうちょっと自分でやって考えてごらんなさいということで、総合学習を出した。だけど何をやっていいかわからないというところに来ているわけです。

 だけど、今はっきりしています。何をやっていいか。日本の事を日本、世界中の人たちが注目している。注目される理由は、東洋の文明も西洋文明も入れて、東洋の文明を見たければ中国に行くことはない。中国は文化革命で全部破壊されているからですね、今。例えば西安に行ったら、ぴかぴかの寺院があります。観光集めのために再建したんです。人は住んでいないです。日本はどうですか。京都に行ったらですね、坊さんが結婚してですね、拝観料を取ってですね、税金も納めないでのうのうと生活されているじゃありませんか。つまり、生きた博物館なわけです、京都は。東洋文明の生きた博物館であります。

 そして、一方、東京はどうか。ディズニーランドもあるしですね、9.11以降アメリカに行かれた人はご承知のとおり、アメリカ人であろうと何人であろうと区別しないですね。ひっかかったらバンドをとる、靴を脱がされる、すべてオープンにさせられる。場合によったらボストンバックをこじあけられるというようなことになってですね、非常に行きにくくなって住みにくくなっている。そして、やがてそのメンテナンス費用が払えなくなったらどうなるか。一体、欧米の近代文明ってどんなもんだったのか。それは東京を見ればよろしいと。東京にはですね、ヨーロッパの周りから全部洗練された形で、東洋近代文明の生きた博物館があります。

 そういう意味でですね、東洋のものも西洋のものも全部あって、そして現在にきているわけですから。ですから、我々は、今、日本はある種の世界性を持ったそういう段階にきているんだとこういうふうに思うわけです。そしてですね、それはある種の日本の使命というふうにとるべきじゃないかと思います。

 世界遺産条約というものの中に、文化的景観っていうのが入りましたでしょう。1992年のことです。世界遺産条約が1972年に始まって、20年後にですね、どうも文化遺産がヨーロッパに偏っていると。何でだろうと。文化は全部それぞれ差はあっても高低差はないはずだと。上下がないはずだと。どうしてそれが、ヨーロッパに集中しているのか、おかしいということで、人間の手が入ってなくても、歴史あるものは文化だと。だから、これは文化的な景観だという、カルチュラル・ランド・スケープという言葉をつくったわけです。その言葉が適用されて、紀伊山地の霊場と参詣道が日本の世界文化遺産になりました。あの文化遺産、例えばね、那智の大社のご神体はなんでしょう。大社ですか、違います。大社は、その後ろに那智の滝があります。あれがご神体です。那智の滝があるという標識でしかありません。ご神体は滝なんです。吉野の奥駆道、あれは万丈の谷、千仭の山の、逆かな、その深山幽谷があるからあの道は意味があるんです。つまり、自然という物の中に本質があるから、文化的景観というものが文化財になったわけであります。

 そういうふうに見ますとね、こういうところに、やがて世界の人たちが共有できるものがあると、水と緑だと。その水と緑、この水というものを最も水の芸術にして、しかも人間の栄養源になるというものをつくり上げているのが水田であり、我々のごはんですよね。

 だからですね、私はこういう話は恐らく富山先生の方が科学的にきちっとなされると思いますけれども、思いとしてはですね、非常に強いものがありまして、だから、単に農業振興だけということではなくって、そういう文明史的な流れの中で見たときの日本の21世紀の役割というものがあってですね、なかんずく子どもたちにどういうものを教えていくかというときにですね、それぞれのところでつくられているその農作物、なかんずく中心としての米、水田というようなものから学びながら、その背景にある世界史といいますか、地球の歴史というようなものを考えると。地域が地球の中でどういうその意味があるかということを考えるという時代になってきているんだなと、こういうふうに思うわけです。

 その意味でですね、ごはんを食べるというとわかりやすい言葉だけれども、最終的にはこういう食育ドリルなどがむしろこれからの日本の教科書になって、それがうまくいくと、今度はそれが韓国語にあるいは中国語に、英語に、フランス語に訳されてですね、こういうふうにして日本というものから学ぶと。かつて、我々が向こうの地域おこしの学問を学んでこちらの大学で学んでいるようにですね、日本の国づくりというものがやがて学ばれる時代が、やがてやってくるという。そのテキストは、我々の自然の中にある。私はこう考えております。

川勝 平太
川勝 平太
 早稲田大学政治経済学部卒業後、同大学経済学部研究科博士課程修了。
 オックスフォード大学哲学博士。早稲田大学政治経済学部教授、国際日本文化研究センター教授を経て、平成19年より現職。専門は比較経済史。歴史の大きな枠組みについて常識をくつがえす斬新な「文明の海洋史観」を提唱し、注目を集める。また、21世紀の日本文明にふさわしいビジョンとして「富国有徳」を唱え、美しい国土を持つ世界に誇りうる日本列島、庭園の島(ガーデンアイランズ)構想を提唱している。
文責:ごはんを食べよう国民運動推進協議会事務局

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