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住文化だってですね、我々はコンクリートのところに入れられたと。ところがですね、やっぱり木がいいなということで、今、注目されていますよね。そういう文化への、日本の文化への回帰といいますか、見直しというものの中に、実はこのごはん運動も位置づけることができるというふうに思うんですね。ですから、実はごはんを食べるったってですね、これは単にごはんを食べるかというとですね、そのお考えくださいませ。ごはんがあって、おかずがあってですね、そしてお茶というものがありますわね。これは、みんなセットになっているわけです。こういうセットとしてのといいますか、いわば文化複合としても、難しい言葉でいうと、そういうものとしての食文化の一貫、一番の基礎をなすごはんという、それを見直すという時期にきているんではないかと。食文化、朝・昼・晩と、ごはんとして食べるということに、その日本の食文化の基礎がある。
これはですね、ごはん、これイネ科ですね、イネ科がいつ栽培植物になったのかと。これは長い間、きょう帰られましたか。京都大学の渡辺忠雄先生が、どうも稲の文化の起源はショヨウジョリン地域にあると。雲南・アッサムにあるんだということで、ところがどんなにさかのぼってもですね、3000年前ぐらいしかこれないということらしいですね。ただ、そこで見つかったのは芋だと。その芋が食べられていると。それのどうもサイドディッシュといいますか、それの代替食として、ねちねちして芋のようなもちの物が食べられたらしい。最初は赤米でモチ米だったらしい。それがですね、だんだんそれで赤米でモチ米の方ができるので、もともと雑草ですからね、それが人間が多くなると下にはじき飛ばされてですね、下流に下るにつれて、米がウルチにかわり、そして白米に変わっていって、水田、水稲に変わっていった。それがですね、黒潮に乗って日本に来たのではないかと。
一方、中国では、湖南省の城頭山というところで都市遺跡を発見されまして、米があるんですよ。6500年前なんですね。そうすると、もうそれは黄河より古いです。黄河は、4000年前ですから。だから、その揚子江文明はこれが一番古いと。だから、河姆渡という河口から、さらに中流域の城頭山まではさらにさかのぼるとですね、ともかく米としては1万1000年前までさかのぼれる。そうすると世界で一番古いじゃないですか。メソポタミアより古くなります。あちらはこの当時は小麦だったんです。
そして、中国の場合には黄河文明、これは畑作、牧畜ですよね。その麦とあるいはこうりゃんと、そして、牧畜で肉を食らうと。そして、揚子江や稲作漁労ですよね。我々と一緒で稲で炭水化物をとってお魚でタンパク源をとるという。それがどうもある年にですね、あるときにですね、寒冷化のためにそこを追われて、そして人々が離散するという、ボートピープルになる。それがですね、この辺は全くの荒唐無稽の話というか仮説なんですけれども、それがですね、どうも九州にたどり着いて、その九州あたりからだんだん北上していって、九州はご承知のように南の方は、例えば笠沙というところがあります。これ古事記に出てきます。古事記の中に笠沙というのが出てきます。笠沙というのは、九州の鹿児島県の西側ですね、にあたります。そこは、ちょうど黒潮がぶち当たるところで、そこら辺に看板が立っていましてですね、「不審な人を見つけたら通報すべし」と書いてあるんですよ。つまり、そこは流れ着くところなんですね。だから、そこに、多分そういうところが笠沙として残った。
ところが、鹿児島はご承知のような火山灰のシラス台地ですから、米に向いていない。だから、だんだん、だんだんとですね、今はしょうちゅうができてちょっと困ったことですわな。米のかわりに、米ができないので、暑すぎてですね、お酒がつくれないわけですね。そのためにですね、たまたま17世紀にしょうちゅうっていうのが沖縄経由でつくれるようになったと。泡盛の技術を利用してしょうちゅうっていうのが17世紀に入って一斉に鹿児島に入るわけですけど、それは酒として、酒と呼んだわけですが、宮路さん、帰り際に何ておっしゃってます。「川勝君、うまいしょうちゅうがあるからな。」と。あの人は鹿児島の人ですからね。だからしょうちゅう好きなんですよ。酒といえばしょうちゅう。清酒の酒といって、ひょっとしたらしょうちゅうのイメージを持っていらっしゃるんじゃないかと、済みません、思うぐらいでありますが、それはおもしろいですよ。あれば蒸留酒でしょう。蒸留酒でありながら、その食中にたしなむことができる珍しいものです。蒸留酒であるもの、例えばブランデーにしてもあるいはウイスキーにしても、食後にたしなみますね。ところが、薩摩でお酒に対する物すごいあこがれがあるから、食中にお酒というふうに見立ててですね、しょうちゅうを飲んでおられたわけですね。それがようやく、臭みがとれてですね、そして今や健康にもいいっていうことで言っていますけれども、要するに、なかなか米ができなかったと。その米がですね、やがてできるのが後に大きなあそこの吉野ヶ里のようなすばらしい弥生文化のあれができたと。それが、今からもう2000年ほど前。
これがですね、どういうふうにその後なったのかといいますれば、今、日本で一番の米どころはどこかというと、先ほど岡島さんが西日本は作況が100以下になっていると、毎年。どうも洪水とかですね、豪雨とかでですね、どうも100に達しないというようなことをおっしゃっていましたけれども、北がいいと。石狩が一番だとおっしゃりました。しかし、石狩、石狩で米ができたというのは、大したもんですよ。なぜかというと、例えば戦前、宮沢賢治さんがなぜ死んだか。あの人はひでりだとか、あるいは日照不足でですね、グスコーブドリの電気のように雨を降らせるために死ぬ青年をあれに書いたりですね、自身自身もその資料をどうするかということで、ともかく宮沢賢治はいかにして品種改良をして、あの北の大地に米を根づかせるかという時代が1920年代、30年代のことでした。
ところが、戦後になると、気がついたら津軽平野が日本一の米どころだと。そして、今気がつけばですね、その北海道、北海道で「きらら」でしたかね、あれ。あの「きらら」っていうのは、何号までいきました。ともかく、10、20、30、これは品種改良の番号ですよね。札幌農学校の伝統を得ながらですね、ずっと北海道大学農学部とその現場とが協力しながらですね、土壌改善をし、そして、その石狩平野を米どころにして、今、「おぼろづき」という、その「こしひかり」よりもうまいものを科学的に分析して、うまさがどこから出てくるかというのをつくったという。北海道の米が、何と石狩平野が日本最大の米どころになり、かつ一番うまいものをつくっているという、こういうわけであります。
つまり、河姆渡やあるいは城頭山あたりでできたものがですね、最終的に北海道まで持ってきた、その日本の米作というのは、これはですね、文明の北上ということとかかわってきますですね。日本の文明というのは、もともと西から来たと。その西といったって、どこかというと、インドあたりからガンジスベースのあたりからですね、ヒマラヤを越えて、あるいは黒潮に乗って日本にたどり着いて、だんだん西からずっと東北の方にいって、北海道にまでいっているわけです。その北海道、これは文明史的に言えばメソポタミアからずっと地中海を越えて、そしてアルプスを越えて、ラテン地域に入ってフランスに入ってですね、チャンネルを越えてイギリスから大西洋を越えて、西へ、西へ、西へという、そのフロンティア開拓をしたアメリカ人と日本人が一緒につくったのが北海道です。だから、北海道っていうところはですね、西洋の文明と日本の文明とが出くわすところで、科学的な治験とその日本の米作とがですね、見事に和合してでき上がっているのが、私は、あの「おぼろづき」じゃないかと思いますよ。本当に、励ましてさしあげたいとこう思うわけですが、私が申し上げたいのはですね、こういう過程で米はどうなったのかというとですね、芸術品になったと思っているんですよ。ごはん自体は日本食ということで大変なブームで、健康食だということでですね、世界中に広まっている。じゃあ、ごはんはどうかと。それはもう、例えばですね、タイに行くと浮稲がある。あれはいわゆる雨季にはどんどん、どんどん10センチ、20センチ、30センチこういうふうに水がたまっていきますから、したがってそれに応じてですね、つまり、人間がしないでも稲の神さんご自身がですね、みずから背を高くしないと水におぼれてしまうということでですね、2メートル、3メートルの浮稲ができる。だから、あそこでどうして米を刈っているかというと、刈れないので穂摘みですよね。穂摘みをしている。日本は江戸時代から全部根刈りじゃないですか。高さが等しいから。
そしてですね、そういう観点で見たら、例えば、今から何年前ですか、1697年ですから、宮崎安貞農業全書が書かれたのは。310年前ですね。310周年記念でありますが、宮崎安貞が農業全集を書くと。それは、後のマニュアルになって、今で言うマニュアルになるわけですけれども、40年の歳月をかけて武士が書いたマニュアル。その中で、一番ページが割かれているのは米です。10ページ。文庫本で10ページです。次いで、綿が9ページであります。その10ページの記述、これを見ていきますとですね、いつ何をしたらいいかということを事細かに書いてあるわけです。これはですね、何でもないことのようです。ところが、これは片や反対側の、地球の裏側にいきますとですね、農業というと、例えば19世紀の中庸でもミレーの種をまく人ありますね、岩波書店のロゴマークに入っています。種まきが描かれている。そしてですね、その後、落ち穂拾いってあるでしょう。それから手を合わせて神に感謝する晩鐘という有名な絵があります。種まいて落ち穂拾って晩鐘して終わりと。要するに粗放農業です。アメリカなんかもっとすごいです。それに比べたときにですね、手を入れて、ハートを入れて、そして稲の言うことを聞き、それからまた土のいうことを聞きながら水を管理して肥料を管理してですね、そして、日光と太陽とのかかわりを計算しながら育てるというは何かというと、これはお花づくりと一緒で、つまり庭づくり。庭でですね、その花も実もなるうちの実もなるものをつくっているのと等しいでしょう。
したがって、幕末にですね、欧米の人が来たときにこれは園芸だと言ったわけですね。日本には農業がないと。アグリカルチャーではなくて、フォーティカルチャー。フォーティカルチャーというのは園芸と訳されます。園芸とは何かといったら庭じゃありませんか。庭づくりの農業をやっているんです。庭づくり、すなわち日本は庭という芸術を、農業においてやっているんです。その一番の中心が米じゃありませんか。だから、米自体がそういう芸術品だと。だから、それをどうありがたくいただくかという、そのいただき方にも作法があり、そしてセットがあってですね、それがですね、私はごはんを食べるということにかかわるというふうに思うわけですね。
つまり、例えばケーキをおはしで食べるとまずいですわな。そんなことないかしら。ケーキをおはしで食べてください。ショートケーキをですね。ショートケーキは日本がつくったそうですけど、いちごを入れるのはフランスにはないそうですけど、ともかくですね、向こうのケーキをおはしで食べるとですね、まずく感じますよ。
同じように、ごはんをフォークでほおばるとですね、何となくお茶わんのごはんですと、だからやっぱりセットがあると。そうすると、そのセットを考えるとですね、やがて日本というのはどの時期にこういうごはんの食文化をつくり上げたのかということにもかかわってくるというふうに思うんです。
それはですね、ちょっと話が前後して恐縮ですけれども、私は、今、明治から100年たってですね、ほぼアメリカの文化を入れ切ったと。その中心は東京だというふうにこう申し上げました。その前にですね、この国は中国の文明の恩恵をこうむってきたわけであります。その中国の文明の恩恵をこうむるために、留学生を派遣し遣隋使、遣唐使、遣民使とかそういうものを派遣してきましたけれども、それが全部終わった時期があります。それがいつかと。これはもう奈良時代、平安時代、ことしは2007年ですが2010年になりますと平城京遷都1300年ですか、ということになりますが、平城京を見たら中国人は「わあ、中国」だと言いますよ。中国をそこに入れた。それから平安京を見ても全く一緒であります。碁盤の目をつくって、そして北に内裏を入れてですね南に羅生門つくるという。それは中国の唐のモデルを入れてきているわけであります。鎌倉時代も、これは鎌倉はいわゆる鎌倉五山、これは唐の次の宋という国があるわけですが、宋というのは上から押されて南宋っていうことで国がありまして、揚子江に都を150年ぐらい置くわけです。リンヤンというところに。そのときに、平安末期から鎌倉にかけて日本は影響を受けてそこから亡命してきた学者のいうことを聞いて鎌倉に五山をつくるわけです。五山というのは、南宋で初めてつくられました。その模倣ですね。そして、室町時代というのがありますね。京都にも五山があります。南禅寺筆頭にですね、東福寺、建仁寺とか万寿寺とかですね、天龍寺、相国寺とこういうのがあるわけですけど、それはみんな周りにあります。京都の周りにあります。ちょうど真ん中には、唐の長安の北の中国の文化を入れ込んで、周りに中国の南の文化のエッセンス、これは禅ですけど、禅とお庭とそして座禅ですね。この文化を入れ込むわけです。だから、室町時代まではですね、中国の文化の影響が非常に強いですよ。しかし、そのときまでです。
その後ですね、例えば日本の能とか歌舞伎とか、あるいはお茶とか生け花とか日本庭園とか、日本の着物とか食文化とか、これいつ出てきたかというと、室町末から江戸時代にかけてですね。そのときにですね、つまり日本の伝統って出てくるんです。宮崎安貞が1697年に農業全集を書いたと。その字を見るとですね、中国の徐光啓の農政全書を範にとりつつとこう書いています。農政全書というのは、中国における漢の時代からの農書を全部まとめ上げて、実際、それ以前にアメリカ大陸か芋とかトウモロコシとかそういうものが来ていますから、最高の農政全書です。農業のマニュアル。それを参考にしながらですね、これは、私自身は専門家ではありませんけれども、古島敏雄というですね、昔、大先生がいらっしゃいまして、その人が昭和21年に日本農学史第1巻というのを出されていますけれども、それを読んでいかれますとですね、古島敏雄全集というのが出てますから、今でも読みますけれども、その古島先生のご本を読むとですね、中国の農政全書とこれは民の間に書かれるわけですね。その数十年後に農業全書という日本の宮崎安貞が書かれた。これはですね、工夫があるんです。そして、中国の農政全書をマニュアルとして抜いているというのが結論です。中国を抜いたというのが結論です。だから、それ以前、そして宮崎安貞はですね、日本にたくさん向こうから入ってきている砂糖だとか、昔は木綿だとか生糸だとかそういうものが入ってきている。こういうふうにして日本のお金が出ていっていると。こういうことをしていると、日本の国がよくないと。
したがってですね、これはどういうふうにして種芸を、つまり農業をしたら生産力が上がるかということについての無知からきているから、私はそれを聞いて、また各地を見て歩いてですね、これをまとめたというふうに書いているんですが、その過程でですね、その経験を踏まえて向こうのものよりも安く効率的にできる、そういうものをつくったという、そういう記録であります。言いかえますと、中国を抜いたという記録で、その結果、中国文明から日本は自立したという、そういう記録なんです。
私は、今、何を申し上げたいかというとですね、その室町末までに日本は中国の文明にあこがれて、中国っていうと先ほど申しましたように黄河の畑作、牧畜文明と揚子江の稲作、漁労文明という、いわば2つの中国というのがあって、それより一番古いのは稲作、漁労じゃないかと。いわば、中国には2つの国、2つの文明、2つの中国があるという話でありますけれども、そういうですね、この中国、その世界最古とも思われるその中国の文明を、私は、室町末までに日本は抜いたというふうに思うわけです。
そして、明治期になりますと、日本の食文化、それから作法、茶の湯、庭づくり、そうしたものが確立いたします。つまり、日本の食文化も住文化も衣料文化も衣食住の文化、これが確立したのではないかとこういうふうに思うわけですね。その中心をなしたのが米だったいうことなわけです。だからですね、その米の復活というのは、実は、恐らく食事としてはいろんな食べ方がされるでしょうけれども、茶の湯における、最初にですね、今回も、きょうご飯いただきましたが、まずお茶が出ると。そして、しばらくするとお弁当が出て、そして最後にまたお茶が出ました。最初に薄茶を出して、そしていろいろと歓待してですね、最後に濃茶をいただいて、そのときにどこでいただくかというと、周り庭ですよ。自然なんですね。そこの中でいただく。そして、それぞれ器、それから出すもの、そうしたものについて、ご主人の方が心を配るということをしているわけです。
それがですね、朝・昼・晩ごはんの背景にある文化だと。食文化だと。これを見直そうと。これはですね、これはですね、今、我々は室町末までに中国の文明を入れ切った。そしてですね、今、平成の初めぐらいまでに西洋の文明も入れ切ったと。言いかえますと、東洋の文明にあこがれてそれを入れ切って卒業した。そして、また西洋の文明を入れ切って、そして卒業した。そして、我々は世界からすごいねと、中国人からもアメリカ人からも、ヨーロッパ人からもすごいねと言われてですね、気がついたら日本の文化、カラオケだとか漫画だとか、あるいはそのファッションだとかですね、そして日本食、これが世界に出ていっているんです。
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